昭和48年09月26日 朝の御理解



 御神訓 道教えの大綱 
 「表行より心行をせよ」「今より何事にも方位は忌まず、わが教えの道に帰れよ」
 
 表行よりは心行をせよ。お参りをさせて頂く事は表行の内に入りますね。毎日お日参りをなさる朝参りしてお出られると、又色々な形の上での行があります又なさる方があります。例えば火や水の行と言った事も表行でしょう。金光様の御信心は、どうでもそのそういう修行がいけない訳はないけれども、矢張り心行を基にしなければ、心行を中心にしなければならない、心行とは不平不足を言わん事。
 と言う教えを頂いた事がありますが、心に不平不足を言うたり、又感じんですむ様なおかげを頂く為には矢張り、心行が必要であります。昨日信心研修会が毎月御座います。研修会のお話の中で、久留米の光橋先生がこんな発表をしておられました。先日二十三日の霊祭丁度、秋分の日に当たりまして、朝の御祈念にお参りをして見えましすから、今日は私が今日は此の儘おかげ頂くんですかと申しましたら。
 大体は一応帰って又出直したい腹だったらしい。けれども親先生からそう言われたから、まあおかげを頂いてお祭りまで続けておらして頂こうと心で決心した。それで久留米に今所謂姑お母さんに当たります、お母さんの所へ電話を掛けた。今日はこんな訳で帰りたいと思いよりましたけれども、今日は秋の霊祭、いろんな御用もあるから、此の儘居れと言われるからこちらにおりますからという電話を掛けた。
 所がその叔母さんには、お母さんの都合があったらしい。それでお母さんには信心がありませんので、矢張りお彼岸ですから、お寺参りをする積りでおられたらしい、ですからそんな事は言われないで、只、今日そんなふうで帰れませんからと言うたら、もうそれこそうんもすうも言わんで、ガチャと電話を切られた。それはお母さんはお母さんで都合があったからなんです。それに帰って来るなり合楽の方で御用を頂くというのですから、そういう矢張り感情というのだ出た訳です。
 所がその光橋先生は、そのガチャと切られた電話を受けながらね、何かしらんけれども有難い物に感じたとこう言うのです。丁度その日は日曜でも御座いましたので、特別奉修員の方たちの御祈念の後でしたから、その祈念の後に頂いたその御理解が、西瓜が南瓜になる御心眼を私が頂いた。西瓜と言いますのは今申します様に、水火の行とね、火や水の行と、所謂表行の事でしょう。
 そういう例えば厳しい行と言う事なんですけれども、今日の修行の焦点をです、南瓜にすると言う事であった。南瓜と言う事はこの辺では、馬鹿の代名詞の様に申しますね。あれはぼうぶらの様な奴だとよく言うでしょう。あれはもう馬鹿のごたる奴だと言う意味なんです。所謂馬鹿と阿呆、今日の私の修行は、どんな事があっても自分の心の中で、馬鹿と阿呆にならせてもらえる大きな心を、もって受ける事を今日の修行と思うておる、その直後で御座いましたから、それが出来たと自分でも言うております。
 何時でもこんなだったら本当に有難いけれども、そういう心に掛け続けておればです、それは姑親の事で御座いますから、そう言ういうなら、色良い返事もなかった。むしろ返事もせずにガチャと電話を切られた。もうそれが心の中に一杯詰って心が真っ黒うなって、折角のお祭りも有難いという心では受けられなかったでしょうけれども、もうその時点で有難いとこう受けた。
 ああ神様が是で今日は、南瓜の修行をさせて下さるな、馬鹿と阿呆の修行をさせて下さるなあと思うたから有難かった。それからお祭りを終わって帰らせて頂いた。もう遅かったですからね、四時くらいになっとったかも知れません、五時くらいになっとりましたでしょうね、お説教が長かった。帰らせて頂いたらまだ、おばあちゃんがその寺参りからまだお帰りになってなかった。
 はぁやっぱりちっとは、もやもやしなさったごたろう模様で、大体私も知っとりますが几帳面な方であります。信心はないけれど、けれどももー後仕舞もせんもう、鍋も釜もこう汚れたまま流しに漬けたままで、散かしちゃる所を、片付けさしてもろうて、そして夕御飯の準備をさしてもろおうて、お掃除どん済ましておる所へ帰って来られた。今日は遅う成ってすみません、と言うてから帰って来なさった。
 怒らく電話を、ガチャと向こうから、切んなさった時です、もう光橋先生の、その馬鹿と阿呆で受けられる、その働きと言う物は、もうその場から恐らくあっとったと思うんですね。矢張り今のとはちった自分が悪かった、幾ら何でん一言ぐらいこう、物を言や良かったくらい、後悔なさったとじゃなかじゃろうか。それが何かの用で、お寺さんだけじゃなかったのかも知れません。
 夕方まで、光橋先生よりも、一足遅れて帰って来なさった。それから後はもう何も無い訳です。あれがどうでしょう心の中が暗いままでしたら、それこそ電話をガチャッと切られた。心の中は所謂いらいらしたり、暗くなっておった、それにおばあちゃんが例えば帰って、例えばすんませんと帰って来なさったっちゃ、返事でんしゅうごつなかったと言うのだったらどうでしょう。問題はそこからですよね必ず。
 ですから本当に是は大変に難しい事と思います。光橋先生も言っとられる用に、その時にたまたま御理解を頂いて、今日はこの御理解でと思うておる時にであったから、即それをまあここで、南瓜の修行をさせて貰えるというのが有難かった。是が心行なんですね。その心行、所謂おかげは和賀心にあるのですから、そういう心の状態におかげの頂けんはずはない。取分け今日は私は、そういう心行を積んで行かなければです。
 今より何事も方位は忌まず。我教えの昔に還れという、いうなら、金光教の信心の根本理念に基づいた、一番大事な所の御教えがです、頭では分かっても、実際には、それを頂き抜けられないと私は思うです。例えば日柄が良いの、方位が悪いのと言う様な事は、金光様の信心をしよれば、お話しを頂いとりますから、そうだと言う事は、頭では分かっておっても、実際の問題の時にです、やっぱり心に引っ掛る。
 だから、何時までもすっきりせん。私は今日は、どう言う様な事だろうかと、自分でも分からなかったけれども、都々逸の文句に「なんにもなかった昔と思い、別れましょうと言う未練」と言う様な歌の文句でしょう。ね、何にも無かった昔と思い、いわゆるそんならば、方位とか日柄とかは言うのは、途中から言い出した事なんですよね。特に言わば支那の人の学問から生まれたもんなのです。だから所謂教えの昔に還れよと、言う事なのです。だから何も無かったのです。
 そげな方位とか日柄とか、大昔は言いよらんかった。それを途中から言う様になったのです。だからそれはいうならば、迷信だとは御教えを頂くから頭では解っとるけれども、何とはなしにそれに未練があるのだ。教祖の御教えを頂いとったから、私は開いたら第一此処ん所を頂いた。なら此処ん所を、なら頭だけではない、芯から解らせて頂く為には、どう言う事になったら良いだろうかと思わして頂いたら今の、表行よりは心行をせよと言う事を頂いた。
 心の行なら光橋先生の例をお話しましたが、そういう心の状態になら、もう本当に神様ちゃ有難い方へ有難い方へとしかおかげは下さらない。それはどう言う腹の立つ事であっても、その時点を有難いと受けた時です、もう有難いおかげは所謂母子ともども助かられる道が、もうそこから開けとる。おばあゃんが済みません。遅うなってから済まんじゃったと。はあ何にも片付けておらんじゃったから、あんたに一人でさせて、まあ夕御飯の準備まで出来ておって、お風呂まで沸いておってと。
 だからそこに本当に、感謝の気持ちも起こって来るであろう。お婆ちゃんそこで光橋先生言葉でいう必要がない。まあ言葉でいうならば、今日はどうも済みませんでした。一日明けてと、言う心がもう言葉では言わんでも、何んにもないと言う事になっておる。そこになら嫁姑の助かりが、そこにある訳なんです。ならそう言う心でね、この御教えは頂かなければ、すっきりした物は、生まれて来ないと言う事。
 頭でほんに成程そうだ、なるほど、迷信だと言う風にですよ、頭では解っておっても、実際問題の時に、矢張り方位を言うたり、日柄を言うたり、矢張り心の底ではしておると言う事になったんではです、なら金光教の信心の私はこの、今よりは、何事も方位は忌まず、わが教えの昔に還れよと言う事はです。金光教の教祖は、こう言ういうならば、迷信の打破する事の為に、所謂天地の大恩、御恩恵と言う物の中に。そういう困った、難儀の基と言った様な物が、有りもしない物をある様に誤認して。
 そして自ら難儀を作っておる。御理解三節に有ります様にです、天地に対する所の御無礼なんだ。方位を言うたり日柄を言うたり、その為に難を受けおるとはっきり仰っとられる。そういう大変な事なんです。廻りとか廻りが難儀の基だと。難儀の基は廻りだと言われておりますけど、その廻りというのは、何処に作って行こうかというて、天地に対する所の御無礼お粗末が、前々の廻りで難を受けておると言う程しの、大変な事なんです。だからなら此処に、理論整然と教祖は説いておられる。
 ですから例えば方位等に煩わしい思いを捨て、わが教えの昔に還らん、御理解を頂けば、頂く程そうだと解るけれども、表行よりは心行をさせて頂いておる心行、所謂おかげは和賀心にあるんだと言う事実をです、心行によっで積み上げた物で行く様な心の状態にならなければ、此処の所の今よりは、何事も方位は忌まず、わが教えの昔に還れよと言った様な素晴らしい金光教的、いうならば信心、いうならばすっきりとした金光教というのは頂けないと思うです。
 金光教の信心しよっても日柄方位言うたり、方位を言うたりする様な事ではすっきりした信心とは言えないでしょう。それは頭の中で解るだけではない、実際私共が体験の上に、心でそれを頂かして貰うと言う所まで行かねば、ためにはです表行よりは心行をさしてもらうという信心。今日はもう一つ頂いた。それは狂歌所謂狂い歌です。正月は新で(死んで)しまえとゆうければ、息が切れずに旧々(キュウ々)とゆうという歌。
 もう今こそ新になってしまいましたけれども、私共の子供の時分には、旧正月と、新正月と両方しとりました。学校関係は新正月、学校官庁けれどもなら、なら村に帰ると、街ではやっぱり何処でも旧で致しとりました。それがその時分に出来た是は狂歌なんですね。正月は新にした方が良いと言う事は、観念の上では解っておるのだけれども日が切れずに旧々と言うておる訳です。旧々(キュウ々)と云う事は、苦労をしておる、苦心をしておる。難儀をしておると言う事だと思んです。
 そう言う物がすっきなしないとです、難儀を断つ事が出来ん。自分で難儀を作って、その難儀には尾を引いとる、又次の難儀が生まれておるけどなら、光橋先生の昨日の話の中から頂く様に、そういうすきっとした頂き方が出来たら、もうその場でです、言わば難儀な基は切れておるだけでなくて、もうそれこそ母子の心の中の状態の中に、有難い済みません有難いという、言わば拝みのお詫びの仕合というか、お礼の仕合と言った様な物が、もう言葉に出来んなりに生まれておると言う事です。
 キュウキュウと言やー先日、ある大変おかげを受けておられる教会の先生から、御手紙を頂いた。その事に御返事を差し上げたいと思うけども、頂いた事が余りその言葉に出にくい様なだからまあ、まあー躊躇してまだ今だその御返事を差し上げてない。そのお届けを、中にお初穂が入っておりましたから、そのお供えをさして頂いてお届けをさして貰いよりましたら、鼻髭を立ててある、鼻髭もちょっと、ちょぼ髭を生やして、そして豆絞りの、丁度どじょう掬いの恰好をしておられる。こう尻からげてね。
 なかなか、恰好のいいどじょうすくいが、出来るだろうと言う様な感じです。それをね太鼓をこう叩いておられる。いわゆる安来節ですよね。あのどじょうすくいと言うのは、それで太鼓を叩いておられる、御心眼を頂いた。それで私はすぐははあ、成程御ヒレイの立つ教会であるけれども、何とはなしに最近一寸行き詰まっておられる感じ。此処でおかげの泉を毎日送って差し上げる。それが最近では大変まあ、有難いと言う御礼の手紙が来ておる訳なんです。
 皆さんはその事をどう言う風に判じられますですか、ちょぼ髭を立てておられると言うのは、私が大嫌いなんです。髭というのが嫌なんです。何か威張った様な感じですですから。それから此の手拭いで頬かぶりしておると言う事は、自分と言う物は頬かぶりしておる訳です。そして太鼓というのは、あれはこう千鳥かけになってますね、それを締め上げてある。あれは締め太鼓なんです。
 いうなら右と願っても左、左と願っても右と所謂千鳥かけになっいる様な信者がいくらもいる。願っても願ってもおかげにならん。信者は一生懸命締め上げて行きよる。自分と言う物は、それをですそう言う事ではおかげは受けられんというてから、叩いておる様な感じ。信者ばかりを叩かずに、自分の頬かぶりを取ってです自分自身を一つ鏡に向かってです、自分自身が改まり叩く、そう言う事では、キュウキュウ言うておるどじょうは掬えんぞと、あのどじょうはキュウキュウ言うて泣きますもんね。
 キュウキュウ言うておる信者がです、それは叩いて教えはしよりますから、それはまあ、辛抱しとりますけどね、それでは信者は助からんと思う。まず先生御自身が頬かぶりを取って、頬かぶりは取らにゃ取らんで良いから、本当にどじょう掬いばやって、太鼓は叩かんな、どじょうの方ば掬わにゃいかん。キュウキュウと言いよるとの方ばすくわにゃいかんというお知らせでしょう。どういうて言えば私より先輩の先生ですから、まあ徳も受けとられる先生ですからどんなに言うて。
 と言うて私はこんなお知らせ頂きましたというても、合楽風にそう言う判じは聞きなさるまい、御理解を付けてやらねば解らん。だから本当に虚心担壊です。向こうも聞くこちらも伝える事になればです、そんな先生もですから本な事そうですとわかんなさろうと思うけれども、是は私自身も頂かして頂かなければならん事です。ならおかげを受けておる御信者の皆さんも、受けなければならん事。家庭なら家庭の上に、言うてもそうですよ、あんたどんがそげんな事じゃけん、おかげ頂き切らん。
 成程お話だけは和尚のごたる事をいう。けれども実際は心行が出来ていないから、それだけの物を家庭の者にまあだ解らせ切る事すらまだ出来ていないじゃないか。それこそ心行教えに本気で取り組む。前日からのあの福岡の大森さんのお話を致しましたね霊祭のときに、十何年かお参りをして来よるけれども、お話は頂いて成程と成程と合点だけはして、耳だけはこえて来た。けれどもね教えと言う物は聞くだけでなくて、本当に自分が守らなければならないのだと、心行の大事な事が解ってです。
 十何年ぶりに教えと言う物は、守るもんだと言う事が解った。もうそれは本当にびっくりする様に解ってない事にですよ。自分ながらびっくりするぐらいに、聞いてもびっくりする様にあるけども、なら私はそう言う様に飜然として、教えと言う物は守るものだ。自分の心にしっかり頂きぬいて行くもんだと言う事を、行じている人があるだろうか。なら光橋先生の例を先に取りましたが、光橋先生の様に教えがその場で、役に立って自他共に助かる様な働きをしておるだろうか。
 只、参っとるだけ拝みよりだけ、お日参りはしておるだけ教えを頂いておるだけであって、教えが血肉になって行きよるだろうか。それが言うならば、なんちになりますかね、まだ一週間にならないくらいでしょう、それはその時申しました様に、ある難儀な問題でもう一年何ぼになりましょう。もう本当に大変難儀な人間関係のっ問題で、その難儀な問題が毎日福岡からお日参りと言う様な、おかげ受けておられるんです。所がです、そういう気持ちにならせて頂いたら、それから何日目ですか。
 昨日一昨日その本人を連れて、丁度私は久留米のお祭り、櫛原にお参りしとりました後に、参って来とられます、久富先生がお取次きしとられる。もうそれこそ掌の手を返す様にです、その事がおかげになってしまっているのですよ。もう只驚くばかりです。如何におかげが和賀心にあるかと言う事、十何年ぶりでも飜然として教えと言う物は聞くだけじゃない、自分の血肉にしなければ、守らなければ行じなけれはと言う事が解った所から、もうそういうおかげが展開して来ておられる。おかげに展開して来ておられる。
 光橋先生の場合もそうでしょう。もう打てば響くもう本当に心一つでおかげが頂けれるのです。そこで人じゃないね、自分自身が先ず言うならば頬かむりをとって、自分自身が神様からご覧になった自分というものを解らせてもろてです、おかげの受けられるのは和賀心にあるんだと思わにゃいかん。おかげのあるのも和賀心ならです、おかげが受けられんのも言わば心行。今日の御理解で言うと心行不足だと解らせて頂いてです。
 おかげを頂いて行く所からです、例えば金光教の一番大事な所、今よりは何事も方位は忌まず、わが教えの昔に還れよ。そういう何にもなかった、それこそ昔に還らせて頂いて、何んの差し障りもない、只、ある物は天地の神様の御恩恵だけだの中に、住まわせて頂いて愈々、神恩奉謝の生活が出来ると言う物だと思うのです。どうぞ今日はその表行よりは心行をせよと言う事と、今よりは何事も方位は忌まずと言う事を結んで聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。